#4 moto
moto: 華道家、フラワーデザイナー、東京の渋谷に拠点を置く店舗を持たない花屋。三代流派の一つ、小原流で学んだいけばなの知識と独自の感性を組み合わせた自由で独創的な世界観を体現し、個人受注のフラワーアレンジメントから飲食店や式場の店舗装花までと幅広い顧客を持つ、花の何でも屋。酒のためなら私財を投げ打つことも厭わない無類の酒好きである。東京都板橋区出身。1993年3月16日生まれ。Instagram→
華と酒。
花があれば。
祝い事はもちろん、普段の暮らしの中に何気なく色を添えることができる。花があれば。決して同じものの無い枝花の個性を最大限に生かして空間を華やかに仕立て上げることができる人種が華道家である。いつもの食卓に、素敵なお店に、個人から会社の生け込みまでと幅広い顧客を持つ、独自の感性をもった人間たらしなmoto。生け込み道具と自身の愛する酒への想いを、思い出を肴に語ってもらっちゃいます。
Materials
切り口鋭く。
華道家にとって、花は生けたら終わりではない。生けた花と共に過ごす人や空間が存在するので、少しでもその時間を長く過ごせるように茎を潰さず水を吸い上げやすいよう綺麗な切り口にすることは欠かせない。花鋏は工具鋏よりも切れ味がよく作業の負担も少ないのもメリットの一つ。「深い理由があって蕨手の花鋏を使ってるわけではなく、一般的に良いとされているから使ってます。2000円くらいでホームセンターとかで買ってきているんですけど、しょっちゅう壊れるし、失くすこともしばしば。現に今使ってるのは蕨手ではなく蔓手の花鋏だったり(笑)」
サッと届けて、サッと飲み屋へ。
生けた花を依頼主に届けるまでがお花屋さんの仕事。しかし配達業務も人通りが多い繁華街や小道の多い都内では一苦労。そんな時は今や都内の主要駅を中心に広がりつつあるLUUPが便利。「徒歩30分圏内とかだととにかく便利です。車で配達することもありますが、LUUPは車と違って小回りが効くし、配達後に近場で返却したらすぐに飲みに行けるので重宝してます」。お花をぶら下げてLUUPに乗った大男を見つけたらそれはmotoかもしれない。
「”芸術も人の心を揺さぶるものでなくてはならない”」
映画は公開時の時代背景を踏まえて観るとその真価を発揮する。「この映画が公開されたのは第二次世界大戦が始まった頃。そんな時代の中でヒトラーに間違えられたヒトラーそっくりの理髪屋が語るラストの演説は、今までの映画で一番心を揺さぶられたシーンでした。詰まるところ、ただ好きな映画。初めて観た時は中学3年生くらいでしたが、人間性の根本的な部分を感じたと同時に”芸術も人の心を揺さぶるものでなくてはならない”っていうことを教えてくれた作品でもあります」
仕事を支える相棒。
フワラーアレンジメントの仕事で店舗装花を行うためには現場に赴く。そんな時に道具を運ぶには無骨な道具箱を抱えて現場に登場する。「大きい規模のお仕事を頂くようになってから、花屋として色々な工具を使う場面も増えてきた時に買いました。初めて手にした時は凄く嬉しくて、一人でやってる仕事に相棒ができたような感覚でした。たったの1500円ぐらいですけどね」
毎日の習慣は糧になる。
「所々に空いてる時期もありますが、5年前から書いてる日記です。強迫観念のようなもので、毎日書くことによって”毎日何かを続けてる”という自負ができます」。今でこそ華道家として一人で仕事を受けるmotoだが自信を失くすこともあったと語る。「何かを何年も続けているというのは人間にとって大事なことだと思っていて、続けることで武器になるし、自信にも繋がる。どこでお酒を飲んだかを書くことが大半です」
疲れた身体に染み渡る。悩み事にも考え事にも欠かせない一杯。
「疲れてる時にはアードベッグをよく飲みます。悩みがある時は一人でゆっくりバーに行って飲んだり。カクテルだったらマティーニが好きです」。酒の場は不思議なもので、ちょっとした雑談から仕事に繋がる縁もある。「お酒に人生をいっぱい救われてきたし、お酒の繋がりでできた縁だってたくさん。だからこそ尚更お酒が大好きなのかもしれません」
「自信のなかった自分の背中を押してくれた」
「働いていたこともあって、思い入れのある街。今は頻繁に行くわけではありませんが、一番病んでいた時に救われました。お店にもよりますが、面白い人たちがいっぱいいて、当時自信が無かった自分に自信を持たせてくれた場所でもあります。『きっとうまく行くよ』って言ってくれる人がいて、自分を肯定してくれる人がいて、救ってもらったかもしれません。特にUKATSUというお店は花を始めてから自信を失った時に支えられた場所なので特に思い出に残ってる店です」
「大人だけどフラットなお客さんたちが集まるお店」
「今まで行ったバーの中で一番素敵なお店です。まさに花の仕事を始めたばかりの頃に知ったお店なのですが、お店の造りや店員さん、マスターのBOBOさんも魅力的ですし、何よりこんなに良い人たちだけが集まるお店があるんだなと驚きました。ここでは仕事だったり、プライベートでも色々な繋がりもできました。それと実は、このお店は大阪時代に知り合った人の繋がりで知ったお店でもあります」
拠点でもあり思い出の場所。
「渋谷に住んでいるということもあって拠点になっているのですが、それよりも中学生の頃から過ごしてきたこともあって思い出がたくさん。田舎に行って綺麗な星を見るのも良いですが、渋谷の細い路地から見上げた細いビルと狭い空と汚い地面が不思議と落ち着くんです。渋谷は都会だけどスマートな部分がありますし、昔からいるということもあって好きな街」。今と昔では過ごし方が大きく異なっていても、離れられない大事な場所のようだ。
無になれる瞬間は、瞑想のようなもの。
日々の仕事の忙しさを忘れさせてくれる存在は大きい。「料理をしている時間は他のことを何も考えなくなる瞬間なので好きです。普段色々考えてばかりだと疲れるじゃないですか。人間には無になれる瞬間が必要だと思っていて、それが人によってはお酒だったり旅行だったりセックスだったり、色々と無心になれる趣味みたいなものがあって、自分にとっては料理がそれなんです」。一度気に入ると同じものを何日も続けて食べたくなることもあるようだ。そんな時には自分で料理を作って気兼ねなく、心ゆくまで堪能できる。
motoの人生漫遊録
今では花屋として仕事をするmotoだが10代の頃からの彼を知る者としてはいつも何をやっているのか分からない変わった人間だったように思う。16歳でニュージーランドに行ってみたり、17歳で大阪に住んでみたり、20代では西麻布や新宿ゴールデン街で働いていたmoto。だが奇抜な人生のように見えて意外と親しみやすさを持ち合わせていることがこの先のインタビューで分かるだろう。
もがき続けた10代の軌跡
醍醐(以下、D):俺からしたらかなりインパクトのある人生を送っているように見えるけど、改めてどんな10代・20代を過ごしてたかを教えてください。
moto(以下、M):花屋をやるまでは常にもがいてたよ。中学生の頃から、自分は特殊な環境に身を置かなきゃいけないと思ってた。一人でも多くの人に会うために旅に出てみたり、毎日飲み歩いたり、とにかく色んなことをしてた。これはあんまり大きな声で言えないけど、中学1年の頃から年齢誤魔化して工事現場で働いてた。お酒が好きすぎて中3の頃には地元のラーメン屋に紹興酒をキープしてて、仕事終わりにはそれを飲んでたよ。
D:もう変だね(笑)それにしても中学生の頃からどうやって生きていこうか悩んでたんだね。それでか中学を卒業してから16歳の頃にニュージーランドに行ってたよね? その理由と経緯を教えてほしい。
M:ニュージーランドに行った一番の目的は自分が生きていけるかの確認だった。知識も経験も頼るアテも無ければ英語も話せない自分が海外に行っても生きていけるのかを知りたかった。「そんなことやってるの?」って言われたかった部分もあったと思うけど、それよりも行ったら何かあるかもって思ってたし、新しい世界に触れたいっていう好奇心で一杯だったんだよね。
当時まだ16歳だったからワーキングホリデーに行ける年齢じゃなかったし、留学するにもそんなお金持ってなかったから、選択肢としては放浪するしかなかった。それでまず引っ越し屋で働いて、旅先の資金は15万円貯めてから出発した。
D:ニュージーランドは行ってみて大変だった?
M:大変だったね。英語なんて全く喋れなかったから、まずニュージーランドの税関に時間かかっちゃって。16歳の日本人が一人で何しに来たんだよ、みたいな。最終的に税関通過するのに4時間かかったね(笑)行ってみてからも毎日生きていくのに精一杯で、数百キロ圏内に自分のことを知っている人が誰もいないっていうのがものすごく寂しかった。もともとビザの都合で3ヶ月しかいられない予定だったんだけど、資金が尽きたから2ヶ月もしないうちに帰ってきちゃった。
D:それで今度はすぐ大阪に行ったの?
M:いや、日本に帰ってからは、何か手に職をつけなきゃいけないって思ってしばらくレストランでコックをやってたよ。お陰で料理はできるようになったけど、ニュージーランドと比べると刺激が足りなさすぎた。
だからまたどこかに行かなきゃと思って大阪に行ったのが17歳。2年弱大阪に住んでたけど、その頃が一番思い悩んでたかな。地元の友達が高校行って文化祭だ体育祭だってやってる時に、自分は既に仕事してたんだけど、このままずっと普通に働いて普通に死んでいくのかなって考えたら物凄く退屈に感じちゃって、漠然と不安にかられてたよ。
D:そもそも大阪を選んだ理由はなんでだったの?
M:だって東京の次に大きい街って大阪じゃん。俺が東京以外の街に住んでたら絶対に東京に行ってるけどね。もう海外はしばらく無理だなって思ってたし、関西弁の彼女が欲しかったのもある。当時住んでた大阪の新世界のシェアハウスの近くにあったのがバーmakotoっていうお店で、今はもうそのお店は無いんだけど本当に凄くお世話になったよ。バーmakotoで知り合って10歳年上の彼女もできたし、そこで仕事を紹介してもらったり、家も紹介してもらったり、友達もたくさんできた。大阪生活はその店が無かったらもうダメだったかもってくらい感謝してる。大阪時代の人付き合いは今でも繋がっている関係性があったりで、本当に行ってよかったと思ってる。
D:大阪を離れた理由は何でだったの?
M:19歳になって生活も安定してきたんだけど、同年代が大学生になってる中で学歴も無い自分はどうしようって不安に駆られたから。
だから今度は大好きなお酒を仕事にしようと東京に戻って西麻布のバーの求人に飛び付いたらそこが実は今でいうスカウトみたいな仕事で(笑)紹介するお店はそのラウンジだけだったんだけど、その世界が自分には合わなかった。毎日辞めたいと思ってたんだけど、自分の担当の女の子達に情が移って辞められなくなっちゃって。しかも自分のせいでこんな世界に引き入れちゃったから、凄くお節介だけど自分が辞める前に自分の担当の女の子たちを辞めさせないとって思って、なんだかんだで結局2年くらいかかって皆を辞めさせて自分も辞めた時が21歳。でもそこからが問題だった。
「どうせ生きていくなら正しいことを。」
M:同年代がそろそろ大学卒業して就活だっていう時に、中卒の自分はどうしようって。それで今度は三軒茶屋でバーテンとして働きながら昼間は工事現場で荷揚げ屋をやってた。荷揚げはキツかったけどめちゃくちゃ楽しくて2年働いてた。
23歳でまた考え直した時に「どうせ生きていくなら人間として正しいことをしたい」って思って、人間として正しいのは花とか植物の世界だって気付いて、よく飲みに行ってたお店の人に話したらお花の先生が知り合いにいるって聞いて、これは縁だと思って弟子入りをしたのが今の師匠。
そこから昼間は花屋で働いてたんだけど、馴染むことができないまま色々あって花屋を半年で辞めることになった。でもこれがかなり落ち込んでね。自分なりに強い覚悟を決めて入った花屋を辞めたことが凄くやるせなくて、物凄く落ち込んだ。俺は決めたことも貫けないんだって。そしたらたまたまゴールデン街のママが拾ってくれて、昼間は花の勉強しながら夜はゴールデン街で働くっていう生活を1年半くらい続けてた。
覚悟を決めて「俺は花屋として生きていきます!」って周りに宣言したのが25歳くらい。Uberの配達員をやりながら花の仕事をやってたんだけど、西麻布のスカウト時代の仲間たちとバーを開くことになってそこで生け込みをして花を売りながら働いてた。結局そのバーは半年くらいで閉めることになったんだけど、その店で知り合った人たちから仕事を頂くようになって、ようやくどうにか花の仕事だけでやっていけるようになった。凄く長くなっちゃったけど、俺の10代・20代はそんな感じです。
D:こうやって聞いてみると、やっぱり経験豊富だよね。
M:確かに経験豊富かもしれないけど、その経験が実を結んだっていうよりはただ運が良かっただけだよね。
D:今後やりたいことって何かある? 例えば自分の個展を開くとか。
M:花を軸にしながら新しいことをやるかもしれないね。個展とかは分からないけど今のところ興味ないかな。興味があるのはお酒を飲みたい時に酒が飲めて遊びたい時に遊べれば良いなってくらい(笑)ただプロとしての自負はあるから、自分が一番良いって思うことを全力でやるから、そういう意味ではどこかで展示みたいなこともするかもしれないね。ただ今は展示よりも、目の前の、自分に花を依頼してくれる人に喜んでもらいたいっていうのが一番かな。
やってみたいならやったら良い
D:Puzzrialのコンセプトに絡めて質問だけど、”やりたいことがあっても勇気が出なくてやれない人”についてどう思う? 周りの人からいじられたり笑われたりとかを気にしてる人とか。
M:そんなんほっとけよって話だよね。周りの意見なんてどうでも良いじゃん。まあ、やりたいのにやれてない人ってそもそも向いてないんじゃないの?って思っちゃうけどね。本当にやりたいことだったら誰に何を言われようがやるでしょ。むしろ人に言われただけでできるできないが決まるなんて、そんな程度のもんじゃないの?
D:まあそうだよね。でも俺はPuzzrialを始めるにあたって相談したら面白がってくれる人がいたおかげで背中押された感じはあるし、周りの意見を気にする人もいると思うよ。どうせなら色んな人に読んでもらいたいしね。
M:確かに背中を押されるとできるっていうのはあるのか。でもよく聞く言葉だけど、やらない後悔よりやる後悔っていうじゃん。人間は何をしたって後悔がつきまとうんだから自分のやりたいこと優先したら良いと思うよ。皆さん好きにやったら?
編集後記
思い出を肴にできるっていうのは良いもので、それが失敗談ともなればその会話に花が咲くことは必至であります。
税関に4時間かかっただとか、仕事を辞めて落ち込んだとか、そんなことを笑いながら話せる彼に成長を感じざるを得ませんでした。
成長を感じたなんて偉そうなことを言っておりますが、15歳だった頃の僕は彼が何を考えているかが分からないが故に、同い年なのに何故かいつも緊張して変な汗をじんわりとかいており、まるで平和公園の池にでも落ちたのかと思うほどにビチョビチョだったのであります。
しかしそんな人間でも久しぶりに会ってみると、思い出を肴にリラックスしてウォッカソーダを片手に笑い合えるのだから時間というやつは全く不思議でなりません。
30歳にもなると、記憶の奥底に埋もれている人間関係というものがそこかしこに転がっております。何をしてるかなと思い出すことはあれど、久しく会っていなかったり、連絡先も知らなかったりと様々。今の時代、そんな旧友をふとした時にSNSで見かけることだってあるじゃないですか。もしかしたら気の合わなかったあの人も気の合う仲になれるかもしれません。
これを読んでいるあなたが何歳であるかはさておき、あの時ああすれば良かった、こう言えば良かった、と頭を抱えて悶絶しているなら勇気をもって行動してみてください。以前とは違う結末があなたを待っているかもしれません。自分の心の声に従うのです。勇気を振り絞る時は今なのです。
僕も勇気を振り絞って言ってみます。
おまわりさん、真冬の平和公園で僕を池に落とした犯人グループの一人はこの人です。